木が、鳴いている。
美々津(みみつ)の浜には、連日、巨木が断末魔を上げるごとき音が響き渡っていた。
クスノキである。
南国の湿潤な気候と、強烈な陽光を喰らって育った樹齢数百年の巨木たちが、斧によって切り倒され、鑿(のみ)によって穿(うが)たれているのだ。
その芳香は、浜辺の潮風を塗り替えるほどに濃密であった。樟脳(しょうのう)の匂い。それは防虫の薬であると同時に、死者の魂を鎮めるための香にも似ていた。
イワレビコは、浜に組まれた櫓(やぐら)の上から、その光景を見下ろしていた。
建造中の巨大な準構造船――『おきよ丸』である。
黒々とした船体は、海獣の死骸のようにも、あるいはこれから孵化(ふか)しようとする巨大な蟲の繭(まゆ)のようにも見えた。
「立派な棺桶(かんおけ)だ」
イワレビコは独りごちた。
不吉な言葉であったが、彼の偽らざる本心であった。
この船は、彼らを新天地へ運ぶ揺り籠であると同時に、日向での平穏な日々を葬り去るための棺(ひつぎ)でもある。
一度乗れば、二度と戻れぬ。
その覚悟が、船の黒い肌に滲(にじ)み出ているようだった。
余談だが、古代における造船技術は、現代人が想像する以上に高度な呪術的体系の中にあった。
木を切り倒すには山の神の許しが必要であり、それを海に浮かべるには海の神の契約が必要となる。船とは、山と海という相反する二つの霊域を繋ぐ、極めて不安定な「境界の乗り物」であった。
ゆえに、船大工たちは同時に神官でもあった。彼らは鑿を振るうたびに祝詞(のりと)を唱え、木材という有機物に「波を御する理(ことわり)」を刻み込んでいったのである。
作業は、昼夜を徹して行われた。
焚き火の明かりが、職人たちの汗ばんだ背中を赤く照らし出す。
槌音(つちおと)が止まない。
カーン、カーン、という乾いた音は、この静かな入り江の鼓動となって、人々の眠りを揺さぶり続けた。
*
出発の時が迫っていた。
八月一日。新月ではなく、満月でもない。
潮が満ち、天の気が東へと流れる、その瞬間を待っていた。
夜明け前である。
空には、有明の月が白く凍りついたように懸(か)かっている。
その蒼白い光が、海面を冷たく照らしていた。波はない。凪(なぎ)である。海全体が、巨大な鏡となって、天の意思を映し出しているかのようだった。
イワレビコは、高千穂の宮を後にし、美々津の浜へと降り立った。
供をするのは、兄の五瀬命(イツセノミコト)、そして彼らに従う久米(くめ)の兵たちである。
誰も口を利かない。
具足(ぐそく)の擦れる音と、砂を踏む音だけが、月明かりの中に吸い込まれていく。
ふと、イワレビコは足を止めた。
気配があった。
浜辺へと続く松林の闇の中に、無数の影が揺らいでいる。
「……民か」
五瀬が静かに呟いた。
日向の民たちであった。
男も、女も、老人も、子供も。
彼らは松の木陰に、あるいは砂浜の端に、息を殺して蹲(うずくま)っていた。
見送りではない。
それは「拝謁(はいえつ)」であり、同時に「訣別(けつべつ)」の儀式であった。
彼らは知っているのだ。
自分たちの王が、神々が、この地を捨てて去ろうとしていることを。
通常ならば、嘆き悲しみ、あるいは袖(そで)にすがって引き留めるところであろう。だが、彼らはそうしなかった。
ただ、沈黙していた。
その沈黙は、雄弁な歓送の声よりも重く、イワレビコの胸を打った。
彼らは理解しているのだ。この地が狭すぎることを。自分たちが愛した王が、この小さな箱庭で朽ちていくには、あまりに巨大な「器」であることを。
だからこそ、彼らは声を殺し、涙を飲み込み、その背中を見送ることを選んだ。
――行かれませ。
――我らは、ここで土と共に生きますゆえ。
声なき声が、潮騒(しおさい)に混じって聞こえた気がした。
イワレビコは、民の方を向き、深く頭を下げた。
王が民に頭を下げるなど、あってはならぬことかもしれぬ。だが、彼は下げずにはいられなかった。
彼らを捨てていくという「業(ごう)」を背負うこと。それが、東征の最初の代償であった。
その時である。
静寂を破るように、一人の老婆が立ち上がり、歌うように叫んだ。
「起きよ! 起きよ!」
それは奇妙な響きを持っていた。
単に「目を覚ませ」という意味ではない。
老婆の声に合わせ、他の民たちも立ち上がり、口々に唱え始めた。
「起きよ、起きよ!」
低く、地を這うような合唱が、浜辺に広がっていく。
伝承では、急な出航のために「起きろ」と民を起こして回ったとも、あるいは民が見送りのために早起きしたとも伝えられるこの言葉。
だが、この場の空気は違っていた。
それは「魂振り(たまふり)」の呪文であった。
眠れる神を起こし、船の魂を揺り動かし、運命という名の巨大な機構を起動させるための、始動の合図であった。
「……聞こえるか、イワレビコ」
五瀬が、厳かな顔で言った。
「民は我らを起こそうとしているのではない。我らの内にある『荒ぶる魂』を、眠りから覚まそうとしているのだ」
起きよ。起きよ。
安住の眠りから覚めよ。
人としての幸せな夢から覚めよ。
そして、神として、王として、血塗られた修羅の道へと踏み出せ。
民の声は、残酷なまでの愛に満ちた、送り出しの祝詞であった。
イワレビコは震えた。
武者震いか、あるいは畏怖(いふ)か。
彼は腰に佩(は)いた太刀の柄(つか)を強く握りしめた。
もう、迷いはない。
民がこれほどまでに、自分たちの「覚醒」を望んでいるのだ。ならば応えねばならぬ。たとえその先に、どれほどの屍(しかばね)の山を築くことになろうとも。
「……乗船せよ!」
イワレビコの号令が、夜明け前の空気を切り裂いた。
*
おきよ丸が、岸を離れる。
綱が解かれ、男たちが太い櫂(かい)を構える。
ギィ、という重い音がして、船体が海へと滑り出した。
水面(みなも)に近い位置から見る海は、陸から見るそれとは全く異質なものであった。
黒い油のような海水が、船腹を叩く。
底知れぬ深淵(しんえん)が、板一枚の下に広がっている。
それは死の世界だ。
海とは、巨大な黄泉(よみ)の入り口に他ならない。彼らは今、生者の領域を離れ、死者の領域へと踏み込んだのである。
船団が進むにつれ、美々津の港が遠ざかる。
民たちの「起きよ」の声も、潮騒にかき消されていった。
だが、浜辺にはまだ無数の点が見える。
彼らは立ち尽くしていた。
月明かりの下、白い着物が幽霊のように並んでいる。彼らは、船が見えなくなるまで、こうして立ち続けるつもりなのだろう。
イワレビコは船尾(とも)に立ち、遠ざかる故郷を見つめていた。
高千穂の峰が、夜闇の中に黒く聳(そび)えている。
あそこで生まれ、あそこで育った。
兄と走り回った野山。母の温もり。
すべてが過去になる。
記憶という名の「澱(おり)」となって、心の底に沈殿していく。
「振り返るな、とは言わぬ」
いつの間にか、背後に五瀬が立っていた。
兄の顔は、月の光を受けて蒼白であった。まるで、既にこの世の者ではないような、透き通った美しさを帯びていた。
「よく見ておけ、イワレビコ。これが、お前が捨てた国だ」
「……捨てたのではありません。広げるのです」
「強がりを言うな。捨てたのだ。我らは、より大きな欲望のために、小さな幸福を切り捨てた。その罪を、忘れるな」
兄の言葉は鋭かった。
だが、その声色には深い慈愛があった。
兄もまた、泣いているのだ。心の中で。
その時、東の空が白み始めた。
水平線の彼方から、薄紫色の光が滲み出してくる。
夜明けだ。
太陽神の子孫たちの旅立ちに相応しい、厳かな暁(あかつき)であった。
だが、イワレビコは見た。
その朝焼けの中に、一筋の黒い雲が横たわっているのを。
それはまるで、大和への入り口を塞ぐ、巨大な蛇のようにも見えた。
不穏な予兆。
風が変わった。
先ほどまでの凪が嘘のように、波が立ち始めた。
船体が大きく揺れる。
船板が軋(きし)み、帆が風を孕(はら)んで唸りを上げる。
「風が出たぞ!」
船頭が叫ぶ。
「東風(こち)ではありません! 逆風です!」
東へ向かう彼らを押し戻そうとするかのように、西からの風ではなく、東からの風が吹き荒れ始めた。
大和の神々が、あるいは瀬戸内の荒神たちが、彼らの侵入を拒んでいるのか。
おきよ丸は、波濤(はとう)の中で木の葉のように揉まれた。
「怯(ひる)むな!」
イワレビコは船首に駆け上がり、叫んだ。
彼は弓を取り、矢をつがえ、見えざる敵――風の彼方に潜む運命に向けて、弦(つる)を引き絞った。
「我は天津神(あまつかみ)の御子(みこ)なり! 道を開けよ!」
放たれた矢は、風を切り裂き、暁の空へと吸い込まれていった。
それは宣戦布告であった。
この列島を支配する、古き「理」への、新しき「理」からの挑戦状であった。
波飛沫(なみしぶき)が顔を打つ。
塩辛い。
それは涙の味に似ていた。
あるいは、これから流すことになる大量の血の味に。
おきよ丸は、逆巻く波を乗り越え、東へと進み始めた。
その舳先(へさき)が指し示す先には、希望と絶望が入り混じった、混沌たる未来が待ち受けていた。
美々津の浜は、もう見えない。
ただ、月だけが、冷ややかに彼らの行軍を見下ろしていた。
(第2話 完)


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