海が、牙を剥(む)いていた。
否、海そのものが巨大な顎(あぎと)となり、彼らを呑み込もうとしていた。
豊国(とよくに)と伊予国(いよくに)を隔てる狭い海峡である。
のちに豊予(ほうよ)海峡と呼ばれるこの水域を、古き人々は畏怖(いふ)を込めて「速吸の門(はやすいのと)」と呼んだ。
水が、吸い込まれていく。
外海の重く黒い水塊が、狭い瀬戸へと雪崩(なだれ)を打って流れ込む。その凄まじい水圧と高低差は、海面に無数の巨大な渦を穿(うが)ち、底知れぬ深淵へと続く漏斗(ろうと)を形作っていた。
轟音(ごうおん)が、耳を劈(つんざ)く。
それは波の音ではない。大地が軋(きし)み、水が悲鳴を上げる音であった。
おきよ丸の船体は、狂ったように揺さぶられていた。
帆は既に畳まれている。このような突風と旋回流の中で帆を張れば、瞬時に帆柱が折れ、船は転覆する。
漕ぎ手たちは必死に櫂(かい)を操るが、水の暴力の前では、彼らの腕力など笹舟の抵抗に等しかった。
「流されます!」
水夫の悲痛な叫びが、飛沫(しぶき)にかき消される。
右舷(うげん)のすぐ先に、すり鉢状に海面が陥没した巨大な渦が口を開けていた。あの暗黒の底に引きずり込まれれば、船は木っ端微塵(こっぱみじん)に砕け散るだろう。
イワレビコは、船首に立ち尽くしていた。
冷たい飛沫を全身に浴びながら、瞬(まばた)き一つせず、眼前の修羅の海を凝視している。
彼の内にある「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の霊力が、熱となって全身を駆け巡る。手にした弓を握りしめ、いつでも海に向かって矢を放てるよう構えていた。
だが、放てない。
矢を射て鎮まるような、単なる獣ではないのだ。
これは「拒絶」であった。
余談だが、古代の海人(あま)たちにとって、瀬戸や海峡とは単なる通り道ではない。それは大地の血脈を繋ぐ巨大な「弁(べん)」であり、二つの異なる海域の気が交わる結節点であった。
日向(ひむか)という揺り籠から出たばかりの、いわば異物のごとき強烈な熱(あまつかみの霊力)を持った船団が、この大地の気道に侵入してきたのである。
土地の精霊たちが、猛烈な免疫の働きを示すのは、理(ことわり)の当然であった。
彼らは、天の神を憎んでいるわけではない。ただ、己が守護する水域の均衡が崩れることを恐れ、巨大な渦という形で排斥(はいせき)を試みているのだ。
「武力では、抜けられぬか」
イワレビコの背後で、兄の五瀬命(イツセノミコト)が呻(うめ)くように言った。
五瀬の顔は苦痛に歪(ゆが)んでいる。彼は霊媒(みこ)としての資質ゆえに、この海峡に渦巻く無数の水神たちの怒りと恐怖を、我が身の痛覚として直接感じ取っていた。
「兄上、ご無理をなさるな」
「いや……見えぬか、イワレビコ。水底から、無数の手が我らの船底を掴もうとしている。彼らは我らの放つ『光』を恐れているのだ。光が強すぎれば、影に生きる者たちは焼き尽くされる。ゆえに、沈めようとしている」
天の理と、地の理。
それが正面から衝突している。
イワレビコは唇を噛んだ。
日向を出る時、彼は武力によって八紘(あめのした)を覆(おお)う決意をしたはずであった。己の信じる正義の機構(しかけ)で、この混沌たる列島を統合すると。
だが、最初の関門で早くも思い知らされていた。
力で海をねじ伏せることはできない。
大地という巨大な装置を動かすには、その土地に根付いた歯車と噛み合わねばならないのだ。
それが、安国(やすくに)への第一歩である。
「誰か……!」
イワレビコは、渦巻く海に向かって咆哮(ほうこう)した。
「この海の理を知る者はいないか! 我は天つ神の御子(みこ)! この地を平らげ、安らかなる国を為(な)すために来た! 我が道を導く者はいないか!」
その声は、風雨を突いて海峡に響き渡った。
力による支配ではなく、叡智(えいち)への求縁。
孤独な覇者が、初めて他者に対して発した「助けの呼応」であった。
すると、奇蹟(きせき)が起きた。
巨大な渦の縁(ふち)を、滑るように近付いてくる影があった。
荒れ狂う白波の中で、そこだけが異様に静謐(せいひつ)を保っている。
亀の甲羅であった。
いや、亀の背に似た、極めて小さな丸木舟である。
そこに、一人の男が胡坐(あぐら)をかいていた。
腰には蓑(みの)をまとい、頭には海草を編んだ奇妙な冠を被っている。年齢は定かではない。少年のようにも、老人のようにも見えた。
驚くべきことに、その男は、船が木の葉のように舞う猛烈な潮流の中で、悠然と釣糸を垂らしていたのである。
「何者だ!」
久米の兵たちが色めき立ち、矛(ほこ)を構えた。
「引け!」
イワレビコは兵を制し、身を乗り出した。
「お前は、人か! それともこの海の神か!」
男は釣糸を引く手を止めず、顔だけをイワレビコに向けた。
その瞳は、深海のように底黒く、不気味なほどの凪(なぎ)を湛(たた)えていた。
「我は、国つ神。名を珍彦(ウズヒコ)と申す」
声は小さかったが、轟音の中でも不思議とイワレビコの耳に明瞭に届いた。風に乗せて声を届ける、ある種の呪術であった。
「天の神よ。お前たちの放つ熱が、海を逆上(のぼ)せさせている。そのままでは、海の神の胃袋に呑まれるぞ」
「我らは東へ向かわねばならぬ! この海を抜ける術(すべ)を知っているか!」
「知っている。我はこの速吸の門に生まれ、この渦と共に生きてきた。どこに岩があり、どこに生の潮が流れているか、目を瞑(つむ)っていても分かる」
珍彦は、土地の記憶そのものであった。
中央集権という巨大な均質化の波が押し寄せる前、日本列島の各地には、こうした極地的な環境に完全に適応した土着の異能者たちが数多く存在した。彼らは、その土地の風土という機構の一部として機能していたのである。
「ならば、我らの水先案内となれ!」
イワレビコの言葉に、珍彦は薄く笑った。
「なぜ、お前を案内せねばならぬ。お前たちが来れば、我らの静かな海は血で汚れる。今まで通り、天の神は山に、地の神は海に、それぞれ分かれて暮らせばよいではないか」
もっともな理屈であった。
排他こそが、最も確実な平和の維持である。
だが、イワレビコは首を横に振った。
「分かれたままでは、いつか共倒れになる! この列島全体を覆う、より大きな災厄から国を守るには、バラバラの歯車を一つに繋ぎ合わせねばならぬのだ! 我はそのための『軸』となる! すべての業(ごう)は、我が身一つで引き受ける!」
それは、帝という名の「生贄(いけにえ)」となる宣言であった。
珍彦の黒い瞳が、僅(わず)かに見開かれた。
彼は、船首で叫ぶイワレビコの姿に、ただの傲慢な侵略者ではない、ある種の凄絶(せいぜつ)な覚悟を見た。自らの身を削り、呪いを食らってでも、この世界を一つの安らかな箱庭に作り変えようとする、狂気にも似た祈り。
「……面白い」
珍彦は釣竿(つりざお)を置いた。
「そこまで背負うというのなら、我もお前のその道程(みちのり)、見届けてやろう」
イワレビコは、船底から一本の長い木を拾い上げた。
椎(しい)の木で作られた、太い棹(さお)であった。
彼はそれを、渦巻く海面に向けて突き出した。
「我が手を取れ、珍彦!」
それは単に船に引き上げるための行為ではない。
天の神と、地の神。
相反する二つの理が、互いの存在を認め、結びつくための「契約」の儀式であった。
珍彦は亀の背から立ち上がると、差し出された椎の棹をしっかりと握りしめた。
途端に、イワレビコの腕に、冷たく重い海の霊力が流れ込んでくる。同時に、珍彦の体には、焼き尽くすような太陽の熱が流れ込んだはずだ。
異質な霊力の混交。
互いの痛みを共有し合うことで、結界は開かれる。
イワレビコが力強く棹を引き上げると、珍彦は身軽に船上へと跳び移った。
「面舵(おもかじ)!」
珍彦が甲板に降り立つなり、叫んだ。
その声には、水神を従える響きがあった。
「渦の縁を舐めるように進め! 岩礁(がんしょう)の切れ目に、一筋だけ息の通る道がある! 帆を半開きにして、風を孕(はら)ませろ!」
水夫たちが、珍彦の指示に従って一斉に動く。
不思議なことに、珍彦が船に乗った瞬間から、海鳴りの音が一段低くなったように感じられた。
水神たちが、同族の介入によって鉾(ほこ)を収め始めたのである。
おきよ丸は、まるで生き物のように船体を傾けながら、巨大な渦の斜面を滑走し始めた。左舷(さげん)のすぐ下には暗黒の水底が口を開けている。だが、船はそこへ落ちることなく、絶妙な均衡を保ったまま、岩と岩の間を縫うように進んでいく。
やがて。
張り詰めた空気が、ふっと緩んだ。
船体を叩いていた飛沫が止み、耳を塞ぎたくなるような轟音が、遠い潮騒へと変わった。
瀬戸を、抜けたのである。
眼の前に広がったのは、先ほどの狂乱が嘘のような、穏やかで鏡のように平らな海であった。
瀬戸内海。
大和へと続く、果てしなく長い内海への入り口であった。
「……見事な手腕だ」
イワレビコは、荒い息を吐きながら珍彦を見た。
「今日より、そなたを『椎根津彦(シイネツヒコ)』と名乗るがよい。我に椎の棹を取らせ、道を導いた最初の国つ神として、我が軍勢の水先案内を任せる」
「御意に」
椎根津彦と名を変えた土着の神は、静かに頭を下げた。
五瀬命(イツセノミコト)が、安堵(あんど)の溜息をついて甲板に座り込んだ。
空を見上げると、分厚い雲が割れ、陽光が穏やかな海面を照らし始めている。
第一の関門は越えた。
だが、イワレビコの顔に喜びはない。
彼は己の掌(てのひら)を見つめていた。椎の棹を握った手には、海の神の冷たさが、まるで古傷の疼(うず)きのようにいつまでも残っていた。
こうして、一つ一つの土地の記憶と契約を交わし、己の内に取り込んでいくのだ。
大和へ辿り着く頃には、己の魂はどれほど異質なもので膨れ上がっていることだろうか。
帝という名の装置に組み込まれる孤独を、彼はこの静かな海の上で、静かに噛み締めていた。
(第3話 完)


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