【第一章】天孫の旅立ち 第四話 宇佐の神託

第1巻:東征の神軍

 速吸の門を抜け、瀬戸内の凪(なぎ)へと滑り込んだ船団は、豊国(とよくに)の宇佐(うさ)へと至った。
 山が、穏やかに笑っているように見えた。
 日向の荒々しい岩肌や、速吸の門の牙を剥く激流とは異なる。豊国の地は、その名の通り豊饒(ほうじょう)な土の匂いと、甘い花の香りに満ちていた。

 歓迎である。
 土地が、彼らを歓迎している。
 いや、正確に言えば「受け入れようと試みている」のである。

 宇佐の浜辺には、奇妙な建築物が建てられていた。
 足一騰宮(あしひとつあがりのみや)。
 一本の太い柱で床を支え、川の岸辺から水面へとせり出すように造られた仮宮である。
 生者の地である「陸」と、死者の領域である「水」の境界線上に危うく立つ、呪術的な舞台であった。

 宇佐の首長である宇佐津彦(ウサツヒコ)と宇佐津媛(ウサツヒメ)の兄妹が、イワレビコと五瀬命(イツセノミコト)をそこへ招き入れた。

「天の神の御子(みこ)たちよ。よくぞこの宇佐の地へお越し下された」
 宇佐津彦は深く平伏した。
 豪族というよりも、老練な神官の顔であった。

 饗宴(きょうえん)が始まった。
 猪の肉、鹿の血、海の幸、そして発酵した濃い酒。
 余談だが、古代における饗宴は、単なる腹満たしや慰労の場ではない。同じ火で煮炊きしたものを食らい、同じ器の酒を飲み交わすことは「共食(きょうしょく)」という極めて重い契約の儀式であった。
 異なる土地の霊力を肉体に取り込み、血肉を同化させる。
 これを拒めば戦(いくさ)となり、受け入れれば義兄弟となる。

 イワレビコは、差し出された獣の肉を無言で咀嚼(そしゃく)した。
 血の滴る肉片が喉を通るたび、宇佐の土地神たちの「記憶」が、己の内に流れ込んでくるのを感じた。

 重い。
 そして、暗い。

 肥沃(ひよく)な土地には、必ず濃密な土着の念が絡みついている。
 イワレビコは、己という器がまた一つ、異物を飲み込んで膨張していくのを覚えた。
 彼は、覇者として上座に座りながらも、底知れぬ孤独の淵に沈んでいた。自分はもはや、日向で生まれ育った単なる人間ではない。この列島中の矛盾と怨念を呑み込み、一つの安らかな国を為(な)すための「機構(しかけ)」になり果てようとしている。
 誰とも分かち合えぬ業(ごう)であった。

「美(うま)し酒だ」
 五瀬命が、顔を赤らめて杯を干した。
 だが、その目は全く酔っていなかった。弟の背負う重圧を少しでも引き受けようと、敢えて多くの酒を煽(あお)っているのだ。

 夜が更けた。
 月が中天に懸(か)かり、足一騰宮の床下を流れる水面が、銀色に光り輝いた。
 その時である。
 宴の隅で静かに酌をしていた宇佐津媛が、ふつりと糸が切れたように倒れ込んだ。

「媛(ひめ)!」
 周囲がどよめく中、宇佐津媛は奇妙な動きで立ち上がった。
 目は虚空を見据え、その瞳孔は黒く開ききっている。

 神懸かり(かみがかり)であった。
 宇佐という古い土地の精霊が、巫女(みこ)の体を借りて顕現(けんげん)したのだ。

『……天の火を持つ者たちよ』
 媛の口から、老婆のような、あるいは地鳴りのような、性別も年齢も定かでない声が響いた。
『我らは、汝(なんじ)らの熱を受け入れよう。この宇佐の地は、天の理(ことわり)に従い、その傘下に入ることを良しとする』

 宇佐津彦が安堵(あんど)の息を吐く。
 これで、豊国との戦は避けられた。
 だが、媛の口から発せられる声は、そこでは終わらなかった。

『しかし、喜ぶのは早い。天の御子よ。汝らが目指す東の果て……世界の中心(へそ)たる大和の盆地には、我らのような素直な神ばかりではない』
 イワレビコは杯を置き、居住まいを正した。

『東には、古き強固な岩が転がっている。彼らは天の光を憎み、己の暗がりに固執する者たちだ。異なる天神の血を引く者を主(あるじ)と仰ぎ、決してその門を開かぬ守護者がいる』
 長髄彦(ナガスネヒコ)のことか、とイワレビコは直感した。

『道は遠い。そして、血塗られている。お前たちは、己の放つ強すぎる光の代償として、身内の血を大地の贄(にえ)として捧げねばならぬだろう』

「……贄(にえ)だと」
 五瀬が、鋭く反応した。

『そうだ。盾となる者が砕け散ることで、初めて矛(ほこ)は岩を穿(うが)つ。天の神よ。安国(やすくに)とは、死屍累々(ししるいるい)たる骸(むくろ)の土台の上にのみ築かれる、呪われた祭壇なのだ。覚悟は、あるか?』

 風が吹き抜けた。
 足一騰宮の下を流れる水が、黒く波立った。
 宴の熱気は一瞬にして凍りつき、居並ぶ久米(くめ)の兵たちも、声を出せずに震えていた。
 土地神からの、無慈悲なる神託であった。
 それは予言というよりも、この列島が要求する「理(ことわり)」そのものであった。
 何かを得るには、何かを失わねばならない。
 神々を統合するという途方もない機構(からくり)を動かすためには、それに見合うだけの巨大な「喪失」という名の燃料が必要なのだ。

 イワレビコは、目を伏せた。
 兄の顔を見ることができなかった。
 「盾となる者」が誰を指しているのか、火を見るより明らかであったからだ。

「……覚悟は、ある」
 静寂を破ったのは、五瀬命であった。
 彼は笑っていた。
 薄い唇の端を歪(ゆが)め、神がかりした宇佐津媛を真っ向から見据えて、笑ったのだ。

「贄(にえ)が必要ならば、くれてやる。だが、ただでは死なぬ。我らの血の一滴一滴が、この列島を縛り付ける古き呪いを焼き尽くす炎となろう。宇佐の神よ。我らは行くぞ。たとえ骨となっても、大和の土を踏んでみせる」

 その凄絶(せいぜつ)な気迫に、宇佐の神は圧倒されたかのように沈黙した。
 媛の体がぐらりと揺れ、糸が切れたように床に崩れ落ちた。
 憑(つ)き物が落ちたのだ。
 宇佐津彦が慌てて妹を抱き起す。

 夜風が、再び花の香りを運んできた。
 だが、イワレビコには、それが血の匂いにしか感じられなかった。
 豊国の歓迎は、甘美な毒杯でもあった。彼らは、戻れぬ道をさらに深く進んでしまったのだ。

「兄上……」
「案ずるな、イワレビコ」
 五瀬は、空の杯を揺らしながら、月の光を浴びて静かに言った。
「戦(いくさ)とは、そういうものだ。我らは神ではない。血を流し、痛みに泣く、ただの肉塊に過ぎぬ。だからこそ、尊いのだ」

 その言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 翌朝。
 宇佐津彦に見送られ、神軍の船団は再び東へと舳先(へさき)を向けた。
 ここから先は、瀬戸内の島々を縫うように進む、長き潜伏と調練の旅となる。
 安芸(あき)へ。
 そして吉備(きび)へ。

 イワレビコの瞳は、もはや一点の曇りもなかった。
 己の孤独も、兄の死の予感も、すべてを腹の底に飲み込んだ。

 ただ、東へ。
 安国という名の、血塗られた祭壇を築くために。

(第四話 完)

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