速吸の門を抜け、瀬戸内の凪(なぎ)へと滑り込んだ船団は、豊国(とよくに)の宇佐(うさ)へと至った。
山が、穏やかに笑っているように見えた。
日向の荒々しい岩肌や、速吸の門の牙を剥く激流とは異なる。豊国の地は、その名の通り豊饒(ほうじょう)な土の匂いと、甘い花の香りに満ちていた。
歓迎である。
土地が、彼らを歓迎している。
いや、正確に言えば「受け入れようと試みている」のである。
宇佐の浜辺には、奇妙な建築物が建てられていた。
足一騰宮(あしひとつあがりのみや)。
一本の太い柱で床を支え、川の岸辺から水面へとせり出すように造られた仮宮である。
生者の地である「陸」と、死者の領域である「水」の境界線上に危うく立つ、呪術的な舞台であった。
宇佐の首長である宇佐津彦(ウサツヒコ)と宇佐津媛(ウサツヒメ)の兄妹が、イワレビコと五瀬命(イツセノミコト)をそこへ招き入れた。
「天の神の御子(みこ)たちよ。よくぞこの宇佐の地へお越し下された」
宇佐津彦は深く平伏した。
豪族というよりも、老練な神官の顔であった。
饗宴(きょうえん)が始まった。
猪の肉、鹿の血、海の幸、そして発酵した濃い酒。
余談だが、古代における饗宴は、単なる腹満たしや慰労の場ではない。同じ火で煮炊きしたものを食らい、同じ器の酒を飲み交わすことは「共食(きょうしょく)」という極めて重い契約の儀式であった。
異なる土地の霊力を肉体に取り込み、血肉を同化させる。
これを拒めば戦(いくさ)となり、受け入れれば義兄弟となる。
イワレビコは、差し出された獣の肉を無言で咀嚼(そしゃく)した。
血の滴る肉片が喉を通るたび、宇佐の土地神たちの「記憶」が、己の内に流れ込んでくるのを感じた。
重い。
そして、暗い。
肥沃(ひよく)な土地には、必ず濃密な土着の念が絡みついている。
イワレビコは、己という器がまた一つ、異物を飲み込んで膨張していくのを覚えた。
彼は、覇者として上座に座りながらも、底知れぬ孤独の淵に沈んでいた。自分はもはや、日向で生まれ育った単なる人間ではない。この列島中の矛盾と怨念を呑み込み、一つの安らかな国を為(な)すための「機構(しかけ)」になり果てようとしている。
誰とも分かち合えぬ業(ごう)であった。
「美(うま)し酒だ」
五瀬命が、顔を赤らめて杯を干した。
だが、その目は全く酔っていなかった。弟の背負う重圧を少しでも引き受けようと、敢えて多くの酒を煽(あお)っているのだ。
夜が更けた。
月が中天に懸(か)かり、足一騰宮の床下を流れる水面が、銀色に光り輝いた。
その時である。
宴の隅で静かに酌をしていた宇佐津媛が、ふつりと糸が切れたように倒れ込んだ。
「媛(ひめ)!」
周囲がどよめく中、宇佐津媛は奇妙な動きで立ち上がった。
目は虚空を見据え、その瞳孔は黒く開ききっている。
神懸かり(かみがかり)であった。
宇佐という古い土地の精霊が、巫女(みこ)の体を借りて顕現(けんげん)したのだ。
『……天の火を持つ者たちよ』
媛の口から、老婆のような、あるいは地鳴りのような、性別も年齢も定かでない声が響いた。
『我らは、汝(なんじ)らの熱を受け入れよう。この宇佐の地は、天の理(ことわり)に従い、その傘下に入ることを良しとする』
宇佐津彦が安堵(あんど)の息を吐く。
これで、豊国との戦は避けられた。
だが、媛の口から発せられる声は、そこでは終わらなかった。
『しかし、喜ぶのは早い。天の御子よ。汝らが目指す東の果て……世界の中心(へそ)たる大和の盆地には、我らのような素直な神ばかりではない』
イワレビコは杯を置き、居住まいを正した。
『東には、古き強固な岩が転がっている。彼らは天の光を憎み、己の暗がりに固執する者たちだ。異なる天神の血を引く者を主(あるじ)と仰ぎ、決してその門を開かぬ守護者がいる』
長髄彦(ナガスネヒコ)のことか、とイワレビコは直感した。
『道は遠い。そして、血塗られている。お前たちは、己の放つ強すぎる光の代償として、身内の血を大地の贄(にえ)として捧げねばならぬだろう』
「……贄(にえ)だと」
五瀬が、鋭く反応した。
『そうだ。盾となる者が砕け散ることで、初めて矛(ほこ)は岩を穿(うが)つ。天の神よ。安国(やすくに)とは、死屍累々(ししるいるい)たる骸(むくろ)の土台の上にのみ築かれる、呪われた祭壇なのだ。覚悟は、あるか?』
風が吹き抜けた。
足一騰宮の下を流れる水が、黒く波立った。
宴の熱気は一瞬にして凍りつき、居並ぶ久米(くめ)の兵たちも、声を出せずに震えていた。
土地神からの、無慈悲なる神託であった。
それは予言というよりも、この列島が要求する「理(ことわり)」そのものであった。
何かを得るには、何かを失わねばならない。
神々を統合するという途方もない機構(からくり)を動かすためには、それに見合うだけの巨大な「喪失」という名の燃料が必要なのだ。
イワレビコは、目を伏せた。
兄の顔を見ることができなかった。
「盾となる者」が誰を指しているのか、火を見るより明らかであったからだ。
「……覚悟は、ある」
静寂を破ったのは、五瀬命であった。
彼は笑っていた。
薄い唇の端を歪(ゆが)め、神がかりした宇佐津媛を真っ向から見据えて、笑ったのだ。
「贄(にえ)が必要ならば、くれてやる。だが、ただでは死なぬ。我らの血の一滴一滴が、この列島を縛り付ける古き呪いを焼き尽くす炎となろう。宇佐の神よ。我らは行くぞ。たとえ骨となっても、大和の土を踏んでみせる」
その凄絶(せいぜつ)な気迫に、宇佐の神は圧倒されたかのように沈黙した。
媛の体がぐらりと揺れ、糸が切れたように床に崩れ落ちた。
憑(つ)き物が落ちたのだ。
宇佐津彦が慌てて妹を抱き起す。
夜風が、再び花の香りを運んできた。
だが、イワレビコには、それが血の匂いにしか感じられなかった。
豊国の歓迎は、甘美な毒杯でもあった。彼らは、戻れぬ道をさらに深く進んでしまったのだ。
「兄上……」
「案ずるな、イワレビコ」
五瀬は、空の杯を揺らしながら、月の光を浴びて静かに言った。
「戦(いくさ)とは、そういうものだ。我らは神ではない。血を流し、痛みに泣く、ただの肉塊に過ぎぬ。だからこそ、尊いのだ」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
翌朝。
宇佐津彦に見送られ、神軍の船団は再び東へと舳先(へさき)を向けた。
ここから先は、瀬戸内の島々を縫うように進む、長き潜伏と調練の旅となる。
安芸(あき)へ。
そして吉備(きび)へ。
イワレビコの瞳は、もはや一点の曇りもなかった。
己の孤独も、兄の死の予感も、すべてを腹の底に飲み込んだ。
ただ、東へ。
安国という名の、血塗られた祭壇を築くために。
(第四話 完)


コメント