【第一章】天孫の旅立ち 第六話:安芸の多祁理宮(たけりのみや)

第1巻:東征の神軍

 島々が、海に縫い付けられている。
 安芸(あき)の国、埃宮(えのみや)とも呼ばれる多祁理宮(たけりのみや)。
 現在の広島にあたるこの地は、瀬戸内の穏やかな海に無数の島影が浮かび、天然の迷宮のごとき様相を呈していた。波は鏡のように平らであり、風は山々に遮られて力を失う。
 日向(ひむか)の荒波を越え、速吸(はやすい)の門の激流を抜け、筑紫(つくし)の淀(よど)みを経てきた神軍にとって、そこはあまりにも静かすぎる揺り籠であった。

 多祁理。
 猛(たけ)り狂う、という意味を内包する名であるにもかかわらず、この宮を支配していたのは、重苦しいほどの沈黙であった。
 彼らはこの地で、七年という途方もない歳月を費やすことになる。

 七年である。
 日向を発(た)った時、四十五であったイワレビコの齢(よわい)は、五十を越えようとしていた。
 肉体は未だ強健であり、手にする弓の弦(つる)を引き絞る力に衰えはない。だが、彼の魂の裡(うち)には、決して拭い去ることのできない澱(おり)が、薄紙を重ねるように降り積もっていた。

 余談だが、大和(やまと)を目指す神軍が、なぜこれほどまでに各地で足止めを食うのか。後世の史家はそれを兵糧(ひょうろう)の調達や、船団の建造のためと説く。
 それは一面の真実ではあるが、本質ではない。
 古代の瀬戸内海は、単なる水路ではない。無数の海神と土着の首長たちが割拠(かっきょ)する、複雑怪奇な「霊的な網の目」であった。
 天の神の御子(みこ)という異物が、この網の目を突き破って東へ進むことは容易(たやす)い。力任せに軍を進めれば、数ヶ月で浪速(なにわ)の海に至ることも可能であっただろう。
 だが、それでは背後に膨大な「穢(けが)れ」と禍根(かこん)を残す。大和を制圧したとしても、背後の気脈が断たれていれば、国はたちまち干上がる。
 安国(やすくに)の祈りとは、この土着の網の目を一つ一つ解(ほど)き、自らの血肉を混ぜ合わせ、天の理(ことわり)という名の新たな機構(システム)へと編み直していく、気の遠くなるような呪術的作業なのである。
 七年という歳月は、安芸の土地神たちを鎮め、その力を完全に神軍の機構へと組み込むために、どうしても支払わねばならない「時間という名の供物」であった。

 干潮の時刻であった。
 多祁理宮の前に広がる海が退(ひ)き、広大な泥の干潟(ひがた)が剥(む)き出しになっている。
 夕陽が、その泥の海を赤黒く染め上げていた。
 イワレビコは、波打ち際まで歩みを進め、湿った土の匂いを嗅(か)いだ。
 ふと、背後を振り返る。
 少し離れた岩の上に、兄である五瀬命(イツセノミコト)が腰を下ろしていた。

 兄は、老いた。
 イワレビコは、その姿を見るたびに胸を抉(えぐ)られるような痛みを感じる。
 五瀬は「盾」である。この安芸の地に蟠(わだかま)る古き因縁や、帰順を拒んだ地の精霊たちの呪詛(じゅそ)を、霊媒(みこ)として一身に引き受け、浄化し続けている。
 髪には白いものが混じり、頬は痩(こ)け、時折、肺の奥から絞り出すような咳(せき)を漏らしていた。土地の怨念という名の瘴気(しょうき)が、確実に兄の命の灯火(ともしび)を削り取っているのだ。

「七年ですな、兄上」
 イワレビコは、泥だらけの足で歩み寄り、声をかけた。
「ああ。七年だ」
 五瀬は、西の空に沈みゆく太陽から目を離さずに答えた。

「我が内なる神が、錆(さび)付きそうです。戦(いくさ)もなく、ただ泥の海を見つめ、土着の者たちと杯を交わすだけの日々。私は、己が牙を抜かれた老犬になったのではないかと、夜毎(よごと)に恐れを抱きます」
 イワレビコの言葉には、覇者らしからぬ気弱な響きが混じっていた。
 行動を封じられることは、武の神髄を持つ者にとって何よりの責め苦である。大和の地はいまだ遥か遠く、己の命がそこまで届くのかという疑念(妄執)が、彼を苛(さいな)んでいた。

「錆びるのではない」
 五瀬は静かに首を振った。
「根を張っているのだ、イワレビコ」

「根を……」

「見よ」
 五瀬が指差した先には、久米(くめ)の兵たちの営みがあった。
 海辺の集落から煙が上がっている。そこでは、日向から従ってきた兵たちが、安芸の女たちと笑い合い、共に網を繕(つくろ)っていた。中には、幼い子を背負っている者の姿もある。

「我らは、この地を侵略しに来たのではない。この地と交わり、新たな国を産み出すために来たのだ。兵たちはこの七年で、安芸の土を食らい、安芸の水を飲み、安芸の女に己の種を蒔(ま)いた。彼らはもう、純粋な日向の民ではない。安芸の血と混ざり合った、新たな天孫の軍勢だ」

 それは、究極の同化であった。
 武力で平らげるだけならば、土地は死ぬ。だが、血を混ぜ合わせ、命を繋ぐことで、安芸の神々は自ら進んで天孫の機構(からくり)の一部となるのだ。

「武具の備えも十分であろう」
 五瀬の言葉通り、多祁理宮の奥では、絶え間なく鞴(ふいご)の音が鳴り響いていた。
 安芸の背後に広がる山々から切り出された砂鉄(さてつ)を溶かし、刀を打ち、矢の根を鍛えているのだ。
 日向を出た時の細々とした軍勢は、今や、鉄の牙を持つ強大な軍団へと変貌を遂げつつあった。

「私は、焦っていたのですね」
 イワレビコは、己の手のひらを見つめた。
 弓だこが硬くこびりついたその手は、七年前よりも一層分厚く、土の汚れが染み込んでいた。
 神という超越者から、泥にまみれた「人間」の王へと、彼自身が変容している証(あかし)であった。

「焦るなとは言わぬ。お前のその渇きこそが、我らを東へ運ぶ風となる」
 五瀬は立ち上がり、咳き込んだ。
 イワレビコが咄嗟(とっさ)に背中をさする。兄の背中は、恐ろしいほどに薄く、骨ばっていた。

「……長居が過ぎた。この地の業(ごう)は、おおむね我が腹の内に収めた。そろそろ、潮時だろう」
 五瀬の言葉は、自らの余命を推し量るようでもあった。

 風が、変わった。
 瀬戸内の凪を破り、西から東へ、潮の香りをはらんだ強い風が吹き抜けた。

「吉備(きび)へ向かいましょう」
 イワレビコは立ち上がり、東の空を睨(にら)み据えた。
「安芸で蓄えた鉄と血を力に変え、次なる結界の地へ。兄上の命、決して無駄には散らせませぬ」

 七年の沈黙が、終わろうとしていた。
 多祁理宮での静かなる潜伏は、彼らを無敵の神軍へと鍛え上げた。
 だが、その代償として、五瀬命の命の残量は、もはや誰の目にも明らかなほどに削り取られていたのである。

 巨大な機構(システム)を構築するための、血の対価。
 イワレビコは己の内に湧き上がる深い疎外感と孤独を、安芸の赤い泥の海に沈めた。
 振り返ることは、もはや許されない。

(第六話 完)

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