風が、澱(よど)んでいる。
男はそう思った。
日向(ひむか)の国、高千穂の宮。
海から吹き上げる風は、湿気をたっぷりと含んで重い。
その湿り気は、宮殿を支える太い柱に青苔(あおごけ)を蒸させ、男の肌にまとわりつく。
四十五年。
この男――カムヤマトイワレビコが、この世に生を受けてから積み重ねた歳月である。
人の一生が五十年に満たぬ時代にあって、四十五という齢(よわい)は、もはや晩年といってよい。本来ならば、孫を膝に乗せ、海に沈む夕陽を眺めて余生を送るべき時分であった。
だが、イワレビコの瞳に老境の安らぎはない。
あるのは、焦燥である。
焦げ付くような、渇きにも似た焦燥が、眼光の奥で燻(くすぶ)っている。
――このままでは、腐る。
彼は宮殿の回廊を歩きながら、己の掌(てのひら)を見つめた。
分厚い手である。剣を握り、鍬(くわ)を握り、時には祭祀(さいし)の道具を握ってきた手だ。
祖父であるニニギノミコトが、天上の高天原(たかまがはら)からこの地に降り立ってより、久しい時が流れた。
筑紫の日向。
ここは確かに、日の光が最初に差し込む聖なる地ではある。
だが、ここは「西の果て」でもあった。
西とは、陽が沈む方角であり、黄泉(よみ)に近い場所である。
海に囲まれ、山に閉ざされたこの地は、天孫族(てんそんぞく)という稀有な種族を守り育てるための、堅牢なる「揺り籠」であった。
揺り籠は、赤子が眠る場所である。
大人がいつまでもそこに蹲(うずくま)っていれば、やがて手足は萎(な)え、魂は腐臭を放ち始める。
水は流れねばならぬ。
血もまた、巡らねばならぬ。
留まることは、即ち死である。
イワレビコは、回廊の突き当たりにある広間へと入った。
そこには、一人の男が座していた。
五瀬命(イツセノミコト)。
イワレビコの同母兄であり、現在の天孫族の長である。
五瀬は、弟の足音を聞いても目を開けなかった。祭壇に向かい、香煙(こうえん)をくゆらせながら、静かに瞑目(めいもく)している。
その背中は、岩のように動かない。
だが、イワレビコには見えていた。兄の背後に渦巻く、巨大な重圧が。
この日向の地を守護する土地神たち、そして過去に葬られた祖霊たちの「声」を、兄はその一身に受け止め、鎮めているのだ。
「……風が、変わりましたな」
五瀬が、目を開けずに言った。
低い、地の底から響くような声だ。
イワレビコは兄の背後に座り、平伏した。
「兄上にも、聞こえますか」
「ああ。海鳴りが違う。東から……遠き東から、何者かが呼んでいる」
五瀬がゆっくりと振り返った。
その顔は、弟によく似ているが、どこか線が細く、儚(はかな)げな陰りがある。
彼は「統治者」というよりも、優れた「霊媒(みこ)」であった。
天孫の血とは、武力ではない。
この世界に満ちる荒ぶる気配――カオスを感知し、それを整然たるコスモスへと書き換える「祭祀の力」こそが、彼らの本分である。
「イワレビコよ。お前は、ここが狭いと言うのか」
兄の問いに、イワレビコは顔を上げた。
躊躇(ためら)いはなかった。
「狭うございます」
断言した。
宮殿の空気が、ピリリと震える。
それは祖霊への冒涜(ぼうとく)にも聞こえる言葉だった。だが、イワレビコは続けた。
「我ら天孫がこの地に降りてより、百七十九万二千四百七十余歳(ももよろずとせあまりななそよろずとせあまりふた千とせあまりよ百とせあまりななそとせあまり)……というのは誇張にしても、幾星霜(いくせいそう)が過ぎ去りました。その間、我らはここ日向にて、ただひたすらに身を潜め、爪を研ぎ、時を待っておりました」
「時、とは?」
「天の時、でございます」
イワレビコは立ち上がり、東の窓を開け放った。
湿った風が吹き込み、二人の髪を揺らす。
「先日、塩土老翁(シオツチノオジ)という者が参りました。博識なる海の翁(おきな)です。彼が言うには、東の方に美(うま)し国があるという」
「青山が四方を巡る、天然の城郭か」
「はい。そここそが、世界の中心(へそ)。六合(くに)の中心(もなか)。そこへ都を移し、八紘(あめのした)を覆(おお)いて宇(いえ)と為(な)すべきです」
五瀬は苦笑した。
弟の言葉は、いつも壮大で、そして危うい。
八紘一宇(はっこういちう)。
世界を一つの家にする。それは美しい響きだが、裏を返せば、己の家族以外をねじ伏せ、飲み込むということでもある。
「イワレビコよ。東には、荒ぶる神がおるぞ」
「承知しております」
「そこには、我らとは異なる『理(ことわり)』で生きる者たちがいる。彼らにとって我らは、招かれざる客。いや、侵略者だ」
「だからこそ、行かねばならぬのです」
イワレビコは、窓枠を強く掴んだ。指が白くなるほどに。
「兄上。安国(やすくに)とは、何もしないことではありません。ただ静かに座しているだけでは、穢(けが)れは溜まり、澱は腐り、やがて国そのものが病に冒されます。見てください、この日向の民を。みな、優しい目をしている。だが、その瞳の奥には光がない。明日を夢見ていない。昨日と同じ今日を繰り返し、今日と同じ明日を待つだけの、死せる平穏に浸かりきっている」
腐敗とは、変化の停止である。
流れない水は、毒になる。
今の天孫族に必要なのは、新たな血であり、新たな風であり、そして何より「闘争」であった。
それは単なる殺し合いではない。
異なる神、異なる文化、異なる土地の霊気とぶつかり合い、傷つき、血を流し、その果てに互いを認め合い、混ざり合うこと。
その痛みこそが、国を若返らせるのだ。
「東へ行けば、多くの血が流れるだろう」
「……」
「お前の血も、私の血もだ」
五瀬の声が、予言めいて響く。
イワレビコは息を呑んだ。
兄には、見えているのかもしれない。
東征の道のりにある、凄惨(せいさん)な光景が。
波に消える船。
雨のように降り注ぐ矢。
血の海に沈む同胞たちの姿が。
それでも。
「私は、参ります」
イワレビコは言った。
それは決意というよりも、すでに定まった運命(さだめ)の確認であった。
「四十五年、私は待ちました。我が身の内に満ちる、天照大神(アマテラスオオミカミ)の霊力が、器を壊さんばかりに膨れ上がるのを。今、解き放たねば、私は私自身の力で焼き尽くされてしまうでしょう」
余談だが、古代において「神」とは人格神であると同時に、一種の巨大なエネルギー体として認識されていた。
天孫族とは、太陽神という強大すぎるエネルギーを、人間の肉体という「器」に封入し、制御(コントロール)する一族の別名である。
彼らは代々、その身を「人柱」として捧げることで、荒ぶる日本の国土を鎮めてきた。
だが、日向という狭い土地では、そのエネルギーを受け止めきれなくなっていたのである。
高圧の蒸気が釜を破裂させるように、イワレビコの魂は、より大きな器――大和という広大な盆地を求めていた。
五瀬は、深いため息をついた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
その所作は優雅で、どこか舞のようでもあった。
「分かった。行こう、イワレビコ」
「兄上……!」
「お前一人を行かせるわけにはいかぬ。お前は『矛(ほこ)』だ。鋭く、強く、前へ進む力だ。だが、矛だけでは国は治まらぬ。『盾』が必要だ」
「盾、でございますか」
「そうだ。荒ぶる神々の呪い、土地の怨念、敵の殺意……それらを一身に受け止め、浄化する盾がな」
五瀬は弟の肩に手を置いた。
その手は冷たかった。
まるで、死者の手のように。
「東の国には、ニギハヤヒという神が既に降臨していると聞く。彼は我らと同じ天神の血を引く者。だが、彼は土地の神と結びつき、その守護者となっているだろう」
「同族喰いになりますか」
「なるだろうな。神と神の戦いだ。ただの戦争ではない。どちらの『正義』が、この列島を統べるに相応(ふさわ)しいか。それを問う、壮大なる盟神探湯(くがたち・神判)だ」
兄の言葉に、イワレビコは震えた。
恐怖ではない。武者震いである。
そして同時に、奇妙な罪悪感が胸をよぎった。
兄を巻き込んでしまうことへの、言葉にならぬ恐れ。
兄は、己の運命を悟っているのではないか。
「盾」になると言った兄の瞳には、生への執着よりも、ある種の諦念(ていねん)と、弟への深い慈愛だけが浮かんでいた。
「準備をせよ。舟を造るのだ」
五瀬が命じた。
「美々津(みみつ)の港に、技(わざ)ある者を集めよ。おきよ丸を造らせろ。軍船ではない。神の輿(こし)を運ぶ、聖なる舟だ」
「はい」
「出発はいつにする」
「風が……東風(こち)が止み、西からの風が吹く頃に」
「よかろう。甲寅(きのえとら)の年を、旅立ちの年と定めよう」
二人は窓辺に並び立ち、東の空を見上げた。
分厚い雲の切れ間から、薄日が差している。
その光は、遥か彼方、瀬戸内の海を越え、浪速を越え、生駒の山を越えて、大和の盆地へと続いているはずだ。
そこに待つのは、栄光か、それとも破滅か。
確かなことは一つだけ。
彼らはもう、戻れないということだ。
揺り籠を出た赤子は、二度と母の胎内には戻れない。
彼らは「神」であることをやめ、「人間」としての歴史を、血塗られた足跡を、この大地に刻むことになるのだ。
「行くぞ、イワレビコ」
「はい、兄上」
その日、高千穂の宮に、今までとは違う風が吹いた。
それは、数千年の静寂を破る、始まりの風であった。
そして同時に、多くの神々を殺し、多くの英雄を葬ることになる、残酷な嵐の前の微風(そよかぜ)でもあった。
四十五歳のイワレビコは、東を睨(にら)みつけた。
その瞳に宿る炎は、もはや消えることはない。
彼が死に、灰となるその日まで。
(第一話 完)

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